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    一等書記官 ジャニー・イッシン

    構成物

    まずは、世界を構成するものが何であるかを論ずる必要がある。

    全ての存在において、数の組み合わせが色彩を彩り、その一つ一つが点を構成する。この点をピローという。

    ピローの要素としての数は、1から12に限定されており、これが個を存在させるのに最適な組み合わせとされている。

    表記としては1文字である必要性から、10は0、11はα、12はβとするのが望ましいとされる。

    また、1112453はA、2995032はBという具合に、数の組み合わせによって数やアルファベット、記号が各ピローに対応する。

    ピローを構成する数をビヤンという。

    ピローの変遷

    ピローを構成する数は、左から右の直線に例外なく配置される。この配列からピローが決定し、配列に対応する色彩を帯びる。

    しかし、ピローにおけるビヤンの配列は一定ではなく、常に入れ替わる。そのことにより、ピローが塗り替えられ、当然対応する色彩も変化する。

    ビヤンの配列が変わっただけで、ビヤンそのものが変質するわけではないが、ピローは全く違うものを示すことになる。これはビヤンの配列そのものがピローを決定する要素になるからである。

    そのためピローはその色彩だけでなく、輝きが強くなったり弱くなったりと、輝度すらも変わってくる。

    一方、ピローが個を構成する際は、前後左右上下など縦横無尽に配置される。ビヤンと同じく、ピローの配列は常に変わっていく。しかしビヤンと違い、ピローの配列が変わるからといって、個が絶えず全く違うものに変化し続けるわけではない。

    むしろピローの配列の変化によって、個の色彩や輝度の変化のパターンが決定づけられ、その変化のパターンそのものが世界を構成するプログラムになる。この信号とも言える個の変化のパターンは、そのものが歩むべき軌跡と一致し、またその信号そのものが運動とも言える。

    ヴルーヘンとボン

    ピローにより個が確定し、その動きは常にその個を表現する。本来あるべき動きを機械的になぞることはできず、本来性と画一性の間を行ったり来たりする。その変化が個に課せられた動きとも言える。

    当初想定された最善の一手はあくまでも空想上の理想であり、実際は本来性と画一性の間により決定づけられる軌跡である。

    この個の変化が別の個の変化と絡み合うことにより、1つの形を形成する。この、個を1つの要素として見た場合、個そのものをヴルーヘンと呼ぶ。

    それに対して、ヴルーヘンの変化により形成される世界そのものの姿をボンと呼ぶ。

    ボンはヤーハーなどの四界それぞれが独立しており、たとえばヤーハーにおけるボンはヤーハー・ボンと呼ばれる。

    つまり、上記をまとめれば、
    ボンを形成するのは、ヴルーヘンである。
    ヴルーヘンを形成するのは、ピローである。
    ピローを形成するのは、ビヤンである。

    とするならば、諸物の根源はビヤンだとも言える。

    ビヤンは横に数を配列させる。一次元的な配列には重力がなく、濃淡もない。シンプルが故に重力に左右されず安定した存在になる。

    一方、ヴルーヘンは三次元的にピローを配列させる。三次元的な配置は、必ずその中心に重心を置き、その核に集約される。中心に向かうエネルギーは核で固まり、外殻に隙間を作る。

    密度が濃いと固まり、動かなくなる。
    密度が薄いと流動し、常に動き回る。

    核と外殻

    核は根本であり、設計図とも言える。核にある情報を元にその存在の全てが構成される。しかし核には実態がなく、核だけではその姿を留めておくことはできない。

    外殻は、設計図に基づいた具体的な姿である。その存在そのものであり、最終形である。しかし、あくまでも核にある情報を反映させただけにすぎず、その本質ではない。

    この核と外殻は、相互に関係し合いながら、存在の最初から最後までを包括する。核と外殻は対であり、その特性は明確に相違がありながらも、その距離を近く保つ必要があった。

    しかし、その二者の特性が促進されるにつれ、二者の違いが明確になり、分離を起こすようになる。これが、核の固定性と外殻の流動性である。相反する変化にそれぞれが剥離していき、最後には関連性が失われ、両者ともに消滅する。

    それは、核からの設計図が外殻に伝わらず、外殻が存在を保てなくなる。具体的な姿が消えるために、その設計図もまた姿を消すという流れである。

    世界が混沌としていた時代、存在が生み出されては、核と外殻が分離して姿を消していった。創造と消滅の概念はここから生まれた。この変化は、尊いものだとしても、創造と消滅という一方向の動きは、振り子のようなゆらめきがなく、高位なものだとは評価されなかった。

    ビッシャー・ヴルーヘン

    そこで辺境の王の一人であるビッシャーが分離ではなく融合を試みた。流動と固定はその密度によるものである。密度を変える方向性は、核と外殻の特性と同義であるため、外殻から中央に向かう方向性を、逆に核から外殻へ変えることは妥当ではなかった。そのため、外殻と核を入れ替えることを試みた。

    ピローは、配列される場所により、核性と外殻性を付帯することになる。つまり、最初に核性をもったピローが、その特性により核の部分への格納が決定づけられるわけではないのである。

    格納された場所により核性、外殻性を帯びるため、それらの特性を帯びた後は変化する場所が決定されることになった。この不自由な部分もまたヴルーヘンを崩壊する道に進めることになった。

    この核性や外殻性が後天的に付与される点にもビッシャーは着目した。

    元々同じ特性を持つのなら、後天的に付与される核性や外殻性を取り除けばよい。そう考え、崩壊前夜に核性、外殻性が消え去るようにプログラミングした。

    しかし、すぐに互いが循環するわけではなく、一定の時間が経つまでピローが留まることになった。これは、核性、外殻性が無くなったところで、それらの動きの軌跡は継続して残っていたためである。ホーンの世界でいう慣性の法則に近い動きである。

    そのため、再び、核性と外殻性を持つまでの時間は僅かだった。

    その後、改めて試みたのが、核性や外殻性を入れ替えることで、あえて特性を持たせることであった。

    核性や外殻性を入れ替えるのは、内的な要素を変えることを指す。核性や外殻性が後天的な特性だとはいえ、それが入れ替わることやピローの位置が劇的に移動することは、危険が伴う。

    その危険は、ビッシャーが与えたプログラム通りにピローが動けば、ピロー同士が衝突することなく見事に一連の動きが完了する。

    しかし、ジャチュアーニャの足跡により軌跡が修正されると、ピローの動きも修正される。その結果、ピロー同士が衝突し、そのバランスを取れなくしてしまう。

    このピローの動きが修正されること、そして、それによりピロー同士が衝突し、存在要素を狂わせて消滅することを一律に動かされることからもじって「ヴィンロンの磁性」と呼ぶ。

    このヴィンロンの磁性は先述したジャチュアーニャの足跡による軌跡の修正だけでなく、他の外的要因についても同様とした。

    ビッシャーは、核性や外殻性を入れ替えることにより、核と外殻が分離せずに済んだことや、外殻から核に移動するエネルギーを保つことができたことを確認し、それをよしとした。

    また、ヴィンロンの磁性によって存在要素を狂わし、消滅するヴルーヘンが現れることについては、より核と外殻が入れ替わったことを輝かせる存在としてむしろ歓迎された。

    ヴルーヘンがヴィンロンの磁性によらずに正常に核と外殻を入れ替えることに成功することを、それを成したビッシャーをもじって、「ビッシャー・ヴルーヘン」と言う。

    ビッシャー・ボン

    ヴルーヘンは粒子である。ヴルーヘンはビッシャー・ヴルーヘンによって劇的な変化を起こす。しかし、それは世界(ボン)も同じことである。核と外殻が分離することによる崩壊を防ぐために、核と外殻が入れ替わる。これをビッシャー・ボンという。

    しかし、ビッシャー・ボンが完成するまで幾度となく世界は外殻と核の分離によって崩壊し、その歴史が分断されてきた。ビッシャーがヴルーヘンを確定させるに至った時期と同じくしてビッシャー・ボンが完成したといっていい。

    世界は3度消滅し、3度復活した。今の世界は4回目の世界であり、消滅して復活するたびに世界が1つずつ増えていった。今現在世界が4つあるのはそのためである。

    4回目の世界が安定しているところから、3では足りず、5では多い。4が完全であるという4の原理がそこで生まれた。

    このビッシャー・ボンが完成していないために崩壊することを、「ヴィルマのギロチン」と言い、ビッシャー・ボンによって劇的に変化し、歴史が分断されることと分けて概念化した。

    ピンチロン

    ヴィルマのギロチンは世界そのものが無くなることであり、その復活は世界創造を改めて行うことを指す。前の世界を今の世界の足跡から眺めることはできない。それは今あるヴルーヘンの軌跡やピロー、ビヤンからも眺めることができない。

    前の世界を知るものは、創造主に属する存在で、「ピンチロン」と呼ばれる者たちである。

    一方で、ピンチロン以外の全ての存在は、被造物に属する存在で、「ヴァターナ」と呼ばれる。

    ピンチロンは創造の担い手である「グン」、システムの担い手である「ビッシャー」、律動(時間)の担い手である「ジョニー・ゴン」、破壊の担い手である「シヴ」で構成される。

    一方で、ヤクトはピンチロンには属さない。被造物の頂点の1つとして君臨するがヤクトもまた被造物であり、ヴァターナである。

    何がピンチロンとヴァターナを分けるのか。それは他律で動くプログラムか否かである。ピンチロンはプログラムでなく、自律して存在するものである。何者もその動きに干渉することができない。一方でヴァターナは他律のプログラムであり、ピンチロンに制御される。

    神とピンチロン

    ピンチロンは創造主に属する存在だが、神ではない。世界を創造する役目にあるだけである。

    神は世界を創造する以外にも神の威光を示す術がある。世界を創造するのはその一端にすぎない。

    ピンチロンは世界を創造する。しかし、そのピンチロンを創造したのは神である。

    この関係を正確に理解するものは少ない。

    ヤーハーの星の物語は唯一神を崇めているが、それはヤクトの1人であるジャチュアーニャであった。神はおろか、ピンチロンにさえ至っていない。

    被造物であるプログラムを崇拝することにより、後のクリオーネ・シフトが起こりやすいという意味では理に適っているとはいえ、真実には程遠い。

    また菩提樹の物語は、ヤクトとピンチロンを合わせて真理とした。さらには、ピンチロン4名を取り囲む形で神を配置しているが、多くの学徒はそれに気づかず、浅い世界理解のまま世界観が確定した。

    砂漠の星の物語は、ヤクトに重きを置きすぎた。ピンチロンに至らずとも十分に真理に到達できる。その意図が深みにはまるリスクを回避したことにあるとしても、きわめて乱暴だった。

    小さき巨人の意識に留まることができるのは、ピンチロンまでといっても過言ではない。そのため複数の神を奉じることがより自然である。むしろ一神論に陥ることの方がより真理から遠ざかることは知られていない。

    さて、ピンチロンはヤクトとは違って他律のプログラムではない。自立した動きを示すことができる。これは神に反逆しうる可能性を示している。しかし、そのようなことは起こらない。それは、ピンチロンが神を崇拝し、神の意志を遂行することを至高の喜びとしているからである。

    それは、神の傍らに座することにより、神の完全性、完美性を見ることができるからである。いわゆる神の威光をいかに再現するか、それがピンチロンの行動原理である。

    神はピンチロンを作ることにより、これらの行動原理を持つことが分かっていた。それゆえに、完全なる自由を与えたのである。ピンチロンの動きそのものが神の威光を示すことであり、当然のことながらピンチロンが創造する世界という作品による神の威光もまた世界の隅々を照らすことになる。

    グン

    グンはよく人差し指を伸ばし他の指を閉じたサインで表される。この世界のプログラムを作ったのはグンである。

    プログラムにより空間や物質が発生し、またその配列によりエネルギーが発生した。エネルギーの総量を定め、増減しないようにすることにより濃淡が表現され、濃淡が移り変わることにより信号が発生する。この信号がその存在を確定するものとして役立った。

    当然、ビヤンやピローを作ったのもグンである。

    グンは変動の要素を大切にした。これは、被造物の動き、もしくは被造物の軌跡が確定的でありながらも、自由に針が振れる余地を残すことを意味している。

    これは、それぞれの被造物に定められた役目があるとしても、その存在の自由により描かれる偶発的な動きを美しいとしたためである。

    自由を与えながらもそれらが全て最終的に神の形をなぞるものになることで以って神の完全性や威光を示すものとした。

    つまり、この自由こそが世界を創造する一番の理由なのである。

    グンは極限まで動きを確定させるプログラムを省いた。これは、被造物たちが、自身で期待される動きを読み取り、自発的に決定していくことを可能にするための前提である。

    また、自由だと神の道を歩むこともあれば、まったく違う道を辿ることもある。この全く違う道を辿ることすらもグンはよしとしたが、被造物全体を束ねる集合意識、集合プログラムが、それを矯正しようとする。この矯正という働きは、グンが組み込んだプログラムではない。これもまた被造物の自由による動きの一つである。

    この動きを神の意志と呼ぶものがいるが、そうではなく、被造物自身の動きである。さらにこの集合意識を神と呼ぶものがいるが、そうではなく、被造物の自由な動きに過ぎない。

    グンは自由を求める。そのため、グンは自由を象徴する。

    それ故に、グンは最初に組み込んだプログラムの創造を除いては、世界に手を出さない。この沈黙こそがグンの意志であり、世界に対する働きかけである。だからこそ、世界のプログラムを創造するが、維持や修正については一切行わない。

    それを以って神に対しての忠誠の証とした。

    ビッシャー

    ビッシャーは地を掌で抑え込むサインで表される。世界のシステムを作り、運用したのはビッシャーである。

    グンにより世界が創造されたが、その世界のプログラムは操るものがいてこそ成立する。いわば、世界を構造することは目的ではなく、あくまでも手段に過ぎない。操り手がいてこそ、システムとしての世界が活かされる。

    この操り手がビッシャーである。世界創造はグンによってのみ行われるのではない。ピンチロンの4人に優劣はなく、4人の意志の融合した形が、一体として導き出された最良の形であり、神の姿をなぞるものである。

    ビッシャーは、グンの創造した世界を素材として、システムを作っていった。これは、グンの創造したプログラムに見られる単純な因果論ではなく、法や道徳に類するものだった。

    個が向上し進化することが義務付けられるのも、ビッシャーによるものである。

    グンが被造物の自由を美徳としたことに対して、ビッシャーはこの自由に向上することの義務とそれを逸脱した際の罰を定めた。

    またビッシャーは均衡を美徳とした。

    美は安定している。そして変わらない。しかし自由があるがゆえに、常に極に偏ってしまう。極に偏ることは、偏ったものによって特徴を際立たせ、無意味に象徴性を持ってしまう。安定とは特性がないことであり、何物にも染まっていないことである。より透明性を示し続けるためには、極に偏り維持することは好ましくない。

    しかし自由があるからには、極に偏ることは免れない。そこで、ビッシャーは、あえて極に偏る特性を維持した上で、そのあと、対極の特性へ引き寄せられるようにした。

    この振り子のような動きは「ビッシャーの振り子」と呼ばれ、極に偏る特性とその上で均衡を保つ仕組みの象徴とした。

    さらに、このビッシャーの振り子により二者の原理が生まれた。

    赤き鴉とクリオーネの対比などが生まれたのもこれが発祥となる。

    従ってビッシャーは均衡を求める。そのためビッシャーは均衡を象徴する。

    それ故に、あらゆる局面において均衡を保つためのシステムを組み込んだ。二者の原理や濃淡による分離を防ぐいわゆる「ビッシャー・ボン」がその典型である。

    これらのシステムから常に歴史は螺旋状に繰り返しながらも結論として前進していった。全体として魂は向上し、それらが描く姿は神をなぞるものだった。この現象でもってビッシャーは神への忠誠の証とした。

    ジョニー・ゴン

    ジョニー・ゴンは、両手を握りしめ両手の親指同士を密着させたサインで表される。時間の概念を創生し、導入したのはジョニー・ゴンである。

    世界を創造したのは、被造物の描く軌跡が神の威光を示すからである。しかし、この軌跡は、その上を歩く点が必要で、その動きは絶え間ない時の蓄積が必要である。

    時間の流れに囚われた存在に限らず、物事の真理を表現するためには、時間の概念が必要だった。

    軌跡を作る。動きを示す。そのことをジョニー・ゴンは実現させた。

    またジョニー・ゴンは、時間に乗る存在と眺める存在とを分けた。乗る存在は、時間に囚われ、その中でしか生きることができない。眺める存在は、時間の最初から最後まで同時に理解することができる。

    この時間に乗る存在と眺める存在は四界ごとにも分けられる一方で、時間を大きな要素とするヤーハーにおいては、表層に近づくにつれ、乗る存在としての要素を高めていった。

    しかし、眺める存在も、物事に前後の位置関係を作る以上、広義では時間に乗ることになる。これはピンチロンたちも同様である。

    つまり時間はその次元に応じて質が異なる。

    時間は、物事を配列するから生じるものである。それが順番となり、その流れが時間である。

    その配列されたそのものがどの程度のプログラムでどこまでカバーするかでその質が決まる。

    ジョニー・ゴンは、このプログラムの配列を格子に分け、格納した。このプログラムが整理されたことが、時間の始まりであり、ジョニー・ゴンが行ったことである。

    元々グンの作ったプログラムは、その自由度故に、プログラム相互が関連しあい、新しいプログラムに変化するという動きが必要だった。単に確定的で無機質なプログラムでは駄目だったわけである。

    そのため、時間がないと動きが生まれず、世界のプログラムが正常に機能しないという事態を引き起こした。

    そのためにグンの意図した世界創造はジョニー・ゴンの時間概念付与が必須だった。

    ジョニー・ゴンは、時間により変化を起こした。この変化により、世界が本来の姿を現すこととした。そのため、ジョニー・ゴンは変化を象徴する。この変化により、神をなぞる信号になるとした。その現象よりジョニー・ゴンは神の忠誠の証とした。

    シヴ

    シヴは、両手の握りこぶしを密着させたサインで表される。世界のシステムの中で、消失のシステムを取り入れたのはシヴである。

    元々、世界には消失のシステムが無かった。つまり、世界創造の際に作られたプログラムが変化していくことはあるにしろ、総量は変化しないことを指した。

    しかし、そのままでは、変化を繰り返すことにより劣化し、良くないものが蓄積されることを意味していた。

    また、変化を重ねることにより確定の要素が増えていき、グンの求める自由が減っていくという事態を引き起こした。

    それは例えば、3×3の格子を被造物、その格子を1つずつ塗りつぶすことを被造物の動きだとした場合、時間の経過とともに塗りつぶされる格子が増え、次の動きの選択肢が狭まっていく。

    しまいには選択することができなくなり、最後には全部を塗りつぶし、その存在の動きが終わりを迎える。

    この事態を避けるために、2つ目の格子を塗りつぶした後に、1つ目の格子を塗りつぶしたことを消失させれば選択肢は永遠に減らないし、永遠に変化し続けることが可能となる。

    この存在の永久性と自由の担保が消失のシステムにより実現できる。

    更に、この消失された格子は無かったことになるのではなく、消失した歴史がその存在に刻まれる。

    消失した格子は塗りつぶされているという意味での実存はしないが、それが消失することによりその存在が明らかに向上した証としてその歴史は残る。歴史として残ることは実存することによって示されることよりも価値がある。それは、実存とは違って永遠に歴史として保存されるからである。

    これは、被造物のうちにある原理だが、一方で被造物を世界の構成要素として捉えた場合、消失の対象は被造物そのものにも及ぶ。

    世界が動き、その軌跡を示すためには、塗りつぶされる被造物がしばらくして消失する。これは生贄とも呼ばれているし、熱狂に侵されたのちに起こる現象とも訳される。

    消失の後は、実存の裏側に潜り、消失した歴史が残るのと同様、究極の抽象として君臨する。しかし、実存する世界に関わることができなくなるため、消失と実存の間に優劣はない。

    これはコンクウ・ベルソーラにおける0の概念と同義である。

    シヴは革新を好む。

    消失させることにより、より新鮮になり、それが停滞を改善するからである。世界が停滞し、既成の概念で固定されるのを嫌う。既成の概念で固定されると、安定し繁栄するように見えるが、それは熱に魘された膨張であり、性質の悪い風邪をひいたのと同じである。

    また、概念が固定されることは、いわば世界が神の極めて一部分しか示さないことも指す。神の威光を示すことを目的にしている世界創造の根本的な目的から外れてしまうのである。

    熱を冷やし、膨張を削ぎ落とし、全く違う概念を注入する。いわば、直前まで被造物の誰も想像できなかった状態に追い込む。

    被造物たちは、固定の価値で定着させることを好む。一見、被造物たちの正義と正反対に見えるシヴの働きから、シヴの働きを「悪」と呼ぶことがある。

    それ故に、ヤーハーにおける物語において、悪魔の存在、悪神の存在がことさら強調されるのはこのためである。

    シヴは選択を象徴する。世界が常に変化を起こし、新鮮な状態に保たれるシステムを持続させることでもって神の忠誠の証とした。

    存在とは

    存在するものはなぜ存在するのか。古今東西、この命題に取り組んだ存在は多い。この存在とは、神やピンチロンを含め「在ること」である。

    神は宙に浮き、動かない代わりに、全てのものに繋がっている。存在とはすなわち、神が思うことである。

    思うことで産み落とされる。思うとはイメージすることではない。神が呼吸すること、考えること、言葉を発する等のことである。

    世界はピンチロンによって作られ、終了すると完了したプログラムの一つとして格納される。この世界というストーリーは神の夢だと訳されるのである。

    神はパーソナルではあるが、実存するキャラクターとして形容できるようなものではない。あくまでも神の向かう方向性があり、それは一方向ではなく、不規則に歪むのである。この方向性と歪みが神のパーソナルなのである。

    これが総体として全ての存在に転写されるが、創造と破壊を繰り返しながらも時計の針が極めて見事にその動きを止めないのと同じで、世界は見事に保たれ、その揺らめきの中で美しい放物線を描く。

    神は自らが永遠に存在することを第一の前提にした上で、複雑でありながらも左右バランスの取れた見事な軌跡を描く。この神の軌跡に比喩的に対応するように、全ての存在はそれぞれの座標に配置された。

    ピンチロンたちはこの見事な美しい対応を見て魂を震わせた。神の意志を履行することを至高の価値と置いたのはそのためである。

    神の軌跡と存在総体の軌跡が比喩的に対応し、それがそれぞれの存在の座標となる。

    ピンチロンたちは、存在総体の軌跡と神の軌跡を比喩的に対応させるために、ビッシャー・ボンやビッシャー・ヴルーヘンなどのビッシャーから派生するものやクリオーネ・シフトなどのイベントを起こそうとした。

    つまり、それぞれの存在が神の光を発するためには、その魂に振り落とされる塵を払いのけ、常に純粋に保つ必要がある。

    そのために、全ての存在はその身を削りながら禊を行わなくてはならない。それは痛みを伴うし、場合によっては存在そのものを消滅させるかもしれない。世界が常に厳しく諸存在に関わろうとするのはそれ故なのである。

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